History

応用地質の歩み

創業~基盤構築期

1951年、北海道大学の助手の深田淳夫は、ダム建設予定地の湛水域に広がる上部白亜紀層の層序を調べる目的で、膨大なアンモナイトを採集しました。その際深田らが作った地質図や地質断面図が、ダム建設関係者の目に留まり、ダムサイトや原石山(ダムを建設するために必要な資材を採取する山)の位置決定や設計に非常に有用であることがわかりました。このことが、「地質分野」と「土木工学分野」の境界領域の開拓するための、応用地質の前身となる「深田地質研究所」を設立するきっかけとなりました。
1957年、「地質工学の創造」を旗印に「株式会社応用地質調査事務所」を設立。資本金500万円、株主68名、職員21名の会社でした。社名の「応用」は、地盤全般を扱うことが出来るとともに、“地質学を応用すること”にかけて一流であることへの誇りが込められています。

成長期

日本は高度経済成長期に入り、名神高速道路や東名高速道路、東海道新幹線など、大規模なインフラが次々と建設されていきました。それとともに、地質調査の需要も飛躍的に拡大し、応用地質の事業も大きく成長していきました。
当社は、綿密な地質調査・物理探査・ボーリングの組合せにより、「土木工学と地質の境界領域」を開拓し、建設事業における地質調査の新しいスタンダードを築き上げました。調査に必要な機器は自ら作り、それが、新たに計測機器の製造・販売事業へと発展していきました。
一方、1964年に新潟地震が発生し、当社は初めて自主的に災害調査団を派遣しました。日本は地震や風水害など自然災害が多い国であり、これらによる被害を軽減するという立場に立って、自分たちの持っている調査技術を活かすという役割を大きな目標として持つべきだと考えたからです。これが、この後、当社が国内外の大規模地震災害に対して調査団を派遣し、災害のメカニズムや被害の実態を研究し続けるきっかけとなりました。
1965年、中国の北京と上海で行われた「日本工業展覧会」へ機器を出品。“メーカー”としての一歩を踏み出すと同時に、初めての海外進出となりました。

変革期

「土木と化学の境界領域の開拓」としての環境分野や、河川分野、エネルギー分野の事業が本格化。
1979年、創業25周年。社員数700人、売上高100億円超の会社に成長しました。
1980年にテキサス州ヒューストンに初の海外現地法人を設立したのを皮切りに、英国、シンガポールにそれぞれ支店を開設。海外展開を本格化しました。
一方、日本国内では、第2次オイルショック後の景気後退、国の公共投資の抑制策などで経営環境が悪化し、1983年度は会社設立以来、初めての減収減益となりました。市場が縮小し始めていた地質調査業の枠を超え、建設分野における設計・施工管理分野、インフラ施設の維持管理分野、産業廃棄物や地下水汚染対策などの環境分野、防災分野、地域開発分野など、総合コンサルタントへと事業の方向性を転換。1985年5月20日、21世紀の当社のあるべき企業像を明確化するため、「応用地質株式会社」に社名を変更しました。
1986年の米国ジオスペース社の買収を皮切りに、1991年米国Kinemetrics社、1997年Geometrics社を買収。海外でのM&Aが活発化。
1992年、岩と土と水の総合的な試験・研究センター「コアラボ」開設。
1995年6月1日、東証一部上場。

1995年 東証一部上場(上)/
1982年 関西国際空港土質調査業務(下)
空中電磁探査・磁気探査法
による火山山体構造調査

再成長期

1997年、創立40周年。「土木工学と生態学の融合」を目指して応用生態工学研究所を福島県三春町に開設。
2009年、建設投資型の公共事業が縮小し、また社会情勢が急激に変化していく中で、応用地質グループが2020年に向けて目指すべきビジョンと、そのビジョンを達成するための基本方針を明らかにするため、応用地質グループ長期経営ビジョン「OYO2020」を策定。過去の成功体験(高度成長期時代に構築した従来型事業)からの脱却と、事業スタイルの転換により事業を拡大することを目指しています。
2014年、第3期中期経営計画 『OYO Step14』策定。縮小する従来型事業と、事業スタイルを転換した新たな事業との入替えに挑戦。
2018年、第4期中期経営計画 『OYO Jump18』を発表。これまで取り組んできた挑戦を加速し、グループの持続的な成長に向けて事業の拡大と経営基盤の更なる強化を目指しています。

2009年 長期経営ビジョン『OYO2020』策定(上)/
BCPソリューション『ServiBers』(下)
BIM (Building Information Modelling)